特に意味はないけれど、過去の自分の文才を見てはニヤつきながら泣いている
失恋は人を詩人にするとはよく言ったもので(誰が?)、あの頃の青臭い文章を読んでいると「あぁ僕はまだ心を病んでいたんだなぁ」なんて小馬鹿にしてしまう。
否、無駄にクオリティの高い文才に嫉妬してします。
自分で言うしかないから自分で言うが、僕は自分の書いた文章が好きだ。
他の誰かに褒められるわけでもないけれど、時々ふっと過去の文章を読んでは「なかなか素敵言葉を積み重ねているじゃないか」などと得意げな気分になる。
どれだけ自分のことが好きなのかよくわからないが、できるならもっともっと詩的な文章を書ける自分でありたかった。
他人の文章を読んで「あぁこの人の言葉好きだなぁ。上手だなぁ。僕もこうやって書けたらいいのになぁ」なんて思うことが多々ある。
どうすれば、この言葉が生まれてくるのか。どうすれば、この表現が思い浮かぶのか。
まったくもってわからないけれど、それはきっと才能と努力の為せる技なんだろうなぁなんて、諦めながら嫉妬する。
例えば桜井和寿の書く言葉は、到底自分では書けない。
最近の作詞はどうも微妙ではあるけれど、それでも僕には書けない。
ましてや全盛期のあの溢れんばかりのボキャブラリーは、いったい何が彼をそうさせたのであろうか不思議でならないほどの才能が光る言葉達だけで構成されている。
なんて桜井和寿を上手に褒めようとするけれど、所詮はこの程度の言葉でしか表現できないのだから、それがまた悔しくてしょうがない。
僕の吐き出す言葉はどうせ誰かの継ぎ接ぎなのである。
これはセンスではない。
記憶の中から掘り出しただけなのだ。
それが、彼らと僕の圧倒的差であり、この差は一生埋まることはない。
悲しいけれど、僕にはセンスというものが何一つないのである。
だから、構えられたミットの中に、いかに速くまっすぐな球を投げられるかどうか。ただそれだけが僕にできる努力の形なのである。よくわからん。