Zぶろぐ

願わくば世界中に幸せを

偶然、君からの手紙

正しくは「突然」ではあるし、そもそも誰からも手紙は届いていない。

SNSが当たり前になったこの時代、年賀状ですら届かないのに、いったい誰から手紙が届くというのだろうか。

そもそも今の住所を知ってるのはハウスメーカーと各種契約サービス先くらいで、友人はおろか、家族ですら知らせてないわけです。

これといって書きたいことがなく、正しくは後世に残したいほどの内容はなく、もちろん先日の旅行話や東京での思い出など、書こうと思えばいくらでも書くことはあるのだけれど。

果たして、わざわざこのブログに書いておくべきことなのかどうかと言われれると、特別そんな風には思わないのである。

もちろん楽しかったんだけどね。

なにか書き始めれば筆が勝手に進むと思ったけれど、全然そんなことがないようです。

もう飽きました。

諦めて、仕事を続けるとしますか。

では。

 

PS

前回のブログからちょうど1年経ってたようです。

元カノたちに思うこと

僕は元来未練たらしい男だ。

過去に付き合った子だけでなく、願い叶わず付き合えなかった子まで、ほぼ全ての想いを覚えている。

ラッキーなことに想いが叶ってお付き合いさせていただいた子たちに対しては、特に覚えている。

だが、たちが悪いと自分で思うのは、「とても好きだった」というポジティブの想いを真空パックに保存されたままでいることである。

違う言い方をすれば、感情を激しく揺さぶられて激怒したことすらあるはずなのに、なんて都合のいいことなのか、そういったネガティブな感情はほぼ覚えていない。

「zzzは激怒した」という事実は覚えているが、だからといって「彼女たちが嫌い」ではないということである。

まぁでもそんな人って全然多いよね。

さて、そういったわけで「あの頃あの子が好きだった」という記憶が消えない僕は、なんともご都合主義なわけだから、未だに「その子達」と連絡を取りたがっている。

否、正確なことを言うと、彼女たちが今幸せでいるのかどうか、ちゃんと元気に暮らしているのかどうかが、ふと気になってしまうのだ。

だから、できればSNSでもいいので最新の彼女達を知りたいのだが、いかんせん僕は彼女らと一切繋がっていない。

Aちゃん、Hちゃん、Aちゃん、Kちゃんは、おそらくSNSをしていない。

Yちゃんは唯一SNSが繋がっている(家も近い)ので毎日のように近況がわかるが、Iちゃんにはブロックされていて、何一つ見ることができない。

 

今日、LINEのタイムラインにHちゃんの投稿がアップされた。

だが、どうも顔写真に見覚えがない。

10年以上も前に付き合っていた子だから多少老けたのかなぁと思いながらTLに投稿された内容を色々調べてみたが、どうも別人のようだった。

ですよね。さすがにこんなに顔が変わるわけはない。ちょっと面影があるように感じたのは、たまたま同じ名前だっただけだからだろう。

そんなわけで、ふとHちゃんのことを思い出してしまったついでに、彼女とのLINE履歴でも見るかと思って検索するが、Hちゃんがいない。

1度か2度だけLINEをしたことがあったはずなのだが、電話番号で検索しても「そこになければないですね」だった。

気づけば友達ではなくなっていたのだ。

これが「電話番号を変えたから」なのであれば良いのだが、彼女の身に何か不幸が訪れてしまっていたと考えてしまうと、ちょっと気分が暗くなる。

唯一の共通の知人とFBで繋がっているので、聞こうと思えば聞けるのだが、わざわざそんなことを聞くのも野暮だなと思い、躊躇している。

なにせこの手法でHちゃんの近況を聞くことができるのは、人生で1回限りな気がするから。

 

Hちゃんは数年前に結婚したはずだが、今も幸せに暮らしているのだろうか。

先々月に誕生日だったAちゃんにLINEを送ったら珍しく返事が来た(数年前にトライしたときは既読スルー)から、Aちゃんは幸せに暮らしていると思われる。

そういえば先日いきなりKちゃんから連絡来たから、彼女もまた幸せなんだろう。

別のAちゃんとはたまにLINEをするから心配はしていない。そもそも彼女は強い。

一番気になるのはIちゃんだけど、あの子はきっと文句言いながら生活するのがデフォだから、まぁきっと大丈夫でしょう。

 

皆、できれば幸せでいてほしいが、最悪幸せではなくても、元気でいてくれるなら、それでいい。

だが、できれば僕より先に死なないでほしい。

ババアになってから寿命を全うするならいいけれど、病気や事故で亡くなるなんてことにはならないでほしい。

大切な家族を残して、この世を去るなんてことにはならないでほしい。

1度でも愛し合った人だから、少なくとも僕は本当に彼女たちの幸せを願う1人です。

どうか、元気に幸せでいてくれ。

あぁ本当に僕は偉そうだな。いつだって僕は偉そうなんだけど、どうか今日だけは無礼講で。

 

 

 

結婚しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ書いてりゃブロガーだって言えるのか否か

元来ブログというものは、日記なのだから「今日起きたこと」「最近思っていること」などをただつらつらと書き連ねていれば良いはずなのに、いつからか「有益なこと」「誰かの役に立つこと」を書かないといけない、そんな風潮になった。

おかげで「ブロガー」などという憎き言葉が生まれてしまい、アクセスのないブログには1円の価値もないと烙印を押されてしまう。そんな悲しい現実が今である。

10年くらい前の話。

当時はアメブロを使ってほぼ毎日更新していた。

というのも、仕事上、ブログの更新を行わなくてはならない状況だった。

もはや日課ではなく、仕事。半強制的に毎日何かを更新しなくてはいけなく、嫌ではないけれどめんどくさくもあった。

そんな10年前、毎日ブログを書く僕に対して、誰かが「ブロガー」と呼び出した。

正直言ってめちゃくちゃ腹がたった。

別に僕はブロガーではない。

確かに毎日ブログを書く人ではあったし、それが仕事の一環でもあったため、少なからず「ブロガー」と呼ばれる筋合いはあったかもだけれど、それでも僕はブロガーではないと自負していた。

残念ながらブログを書くことで収益を上げられなかったわけで、ブログから1円も生み出してはいなかっただろう。

何かしらの相乗効果はあったかもしれないけれど、広告収入があっとわけでもなく、ブログから無関係の集客ができたわけでもない。

ともすれば、僕はブロガーなんて言える立場でもなかったわけだ。

つまり、ブロガーと呼ばれることが恥ずかしかったのである。

一軍で試合に出ていないプロ野球選手が「プロ野球選手」と紹介されるようなもの。

僕が今まで出会ってきた一軍で試合に出られないプロ野球選手は、みな自分のことをプロ野球選手だと言うことに恥ずかしさに似た何かを抱えていたと感じている。

(だったら遊んでないで練習してろよ、と言いたいのはグッと我慢)

当時の僕を紛いなりにもそれで飯を食ってる彼らと並べるのは少々遠慮がなさすぎるけれど、まぁ平たく言えば一緒なはずだ(図々しい)

ただ一つ言えることは、別に毎日ブログを更新しているからといってブロガーと呼ばれることへの腹正しさと、ただ毎日ブログを書いているだけで収益化できていないにも関わらず堂々と自分のことをブロガーと呼ぶ人たちへの図々しさ。

後者に関して言えば、むしろ「よくもまぁ恥ずかしくないね。逆にすごい」とも思うわけだけど、決して売れているわけもなく、メジャーデビューしてるわけでもないのに、たまにライブハウスで歌を歌っているだけで自分のことをミュージシャンと言う彼らと同じだな、と書いてて思ったから締めくくりとしてはなんだか後味悪いけど、まいっか。

なんだかこういうところにたいして、自分は恐ろしく厳しいんだぁと改めて思ったわけなのである。

特に意味はないけれど、過去の自分の文才を見てはニヤつきながら泣いている

失恋は人を詩人にするとはよく言ったもので(誰が?)、あの頃の青臭い文章を読んでいると「あぁ僕はまだ心を病んでいたんだなぁ」なんて小馬鹿にしてしまう。

否、無駄にクオリティの高い文才に嫉妬してします。

自分で言うしかないから自分で言うが、僕は自分の書いた文章が好きだ。

他の誰かに褒められるわけでもないけれど、時々ふっと過去の文章を読んでは「なかなか素敵言葉を積み重ねているじゃないか」などと得意げな気分になる。

どれだけ自分のことが好きなのかよくわからないが、できるならもっともっと詩的な文章を書ける自分でありたかった。

他人の文章を読んで「あぁこの人の言葉好きだなぁ。上手だなぁ。僕もこうやって書けたらいいのになぁ」なんて思うことが多々ある。

どうすれば、この言葉が生まれてくるのか。どうすれば、この表現が思い浮かぶのか。

まったくもってわからないけれど、それはきっと才能と努力の為せる技なんだろうなぁなんて、諦めながら嫉妬する。

例えば桜井和寿の書く言葉は、到底自分では書けない。

最近の作詞はどうも微妙ではあるけれど、それでも僕には書けない。

ましてや全盛期のあの溢れんばかりのボキャブラリーは、いったい何が彼をそうさせたのであろうか不思議でならないほどの才能が光る言葉達だけで構成されている。

なんて桜井和寿を上手に褒めようとするけれど、所詮はこの程度の言葉でしか表現できないのだから、それがまた悔しくてしょうがない。

桜井和寿の言葉のように、桜井和寿を褒め称えてみたかった。

僕の吐き出す言葉はどうせ誰かの継ぎ接ぎなのである。

これはセンスではない。

記憶の中から掘り出しただけなのだ。

それが、彼らと僕の圧倒的差であり、この差は一生埋まることはない。

悲しいけれど、僕にはセンスというものが何一つないのである。

だから、構えられたミットの中に、いかに速くまっすぐな球を投げられるかどうか。ただそれだけが僕にできる努力の形なのである。よくわからん。

とりあえず生きている

会社を辞めて独立して、アレコレ色々やりながらなんとか生きている。

と言いながら、生活は会社員時代よりも余裕があるのは否めない。

安定なんてないけれど、上手くいくもいかないも自分次第なわけで、とりあえず今はなんとか生きている。

ただ、常に何者かに縛られている感じがあり、精神的にストレスフリーになる瞬間はほぼない。

5年先を考えるだけ不安しかなく、10年20年先など全く見通しが立たない。

こんなままで本当に大丈夫なのかと考えるときもあるけれど、とにかく今やれることをやるだけで精一杯だったりもする。

10年先なんて孫さんくらいにしか見えないでしょ。

全く関係ないけど、ポケットWiFiが欲しいので、色々調べた結果「Mugen WiFi」とやらを買ってみた。今のところは順調に使えている。

今はもうWiMAXが主流ではないんだな。時代は変わる。私も変わる。あなたもきっと変わっている。

 

15分だけ時間を使ってブログ書く

ぼーっとする時間を無駄に感じてしまい、常に何かしていないと落ち着かないくせにはてなブックマークとか見ちゃう僕は恐ろしく矛盾しているような。

さて、15分だけ使って久々にこのブログを更新してやろうと思った。1分経過。

仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事。

これでもかってほどに、すべての時間を仕事に費やしてはいるけれど、どうにもこうにも効率が悪いというか、隣の芝が青く見えるというか、集中力がないというか、あれこれ手を出してしまい、結局どれもこれも中途半端な未完成品ばかりが出来上がってしまっているのが現状です。ごめんなさい。

わかっちゃいるけど、やめられない。この現象に名前ください。3分経過。

すなわち、この2年で手元に残るお金はほとんど変わっておらず、成長してるのか退化してるのか全くわかんない僕です。

おそらく、成長スピードが時代の進化に追いついておらず、横ばいを繰り返しているのではないかと推測。

これってつまり仕事できない男パターンなんじゃないかっていう現実問題を見て見ぬふりしたりしなかったり。

とはいえ「今は基礎固め」よろしく、成長するときは後半にぐいーんと上がるっていう、それに期待している感は否めない。

むしろそうであってもらわないと、この1年コツコツ(?)取り組んできたことが全て水の泡になってしまうじゃないか的な。6分経過。

どちらにせよ、コツコツとか一番苦手なやつで、同じことを繰り返し行うことが大嫌い人間なので、本当に困った。

軌道にのるまではコツコツこそが最強とわかっていながらも、どっかで楽にワープできる方法を模索することに時間とお金を使ってしまっているわけで、それは駄目だとわかっている僕と、いやいやまじめにコツコツとか時間たりねーよと正論のような言い訳をしている僕が共存している次第でございます。8分経過。

やばい、むしろ15分とか長すぎて逆に大変じゃんって今更ながら気づきました。

こんなくだらないぼやきのために15分間はてなブログに滞在することこそ無駄の極みですので、この辺で公開するボタンを押したいと思います。

 

9分経過。

そして君は誰かのものになっていた

偶然というものがあるのならば、あれがきっとそうで。たまたまの連続であれがこうでそうなって。

気づけば君のSNSを見ていた。そして君は誰かのものになっていた。

 

その瞬間「え!?」と驚きの声をあげ、そして「まじか」と落胆した。そう、これがきっと僕の本心なのである。

写真に寄せられていた友人からのコメントを読んで実感が湧き、そして日付を確認し、それがわずか1ヶ月前の出来事であることを嘆いた。

その日付に君が友人らに祝われていたとは限らないが、僕はその日その時いつもと変わらない時間を過ごしていたはずだし、おそらくちょうど2回目のインフルエンザにかかって魘されいた頃だろう。

時を同じくして君は白いドレスに身をまとい、生涯で1番綺麗で美しく幸せな時間を過ごしていたかと思うと、やっぱり僕じゃなかったんだなと今更わかりきっている解答に胸が痛くなった。

 

もう一度君から連絡が来るんじゃないかっていう淡い期待は木っ端微塵に砕け散った。

それでいい。君は幸せになってしまえばいい。

 

散々思いを巡らせた後、ようやくこの言葉を指先から放つことができた。

 

結婚おめでとう。